「妻沼事件」の考察!関東大震災時に発生した虐殺事件を深掘りする

コラム

関東大震災は1923年9月1日に発生した自然災害であり、関東地方南部を中心として甚大な被害をもたらしました。この時には社会的な混乱によってデマが横行したことでも知られており、それによって各地で朝鮮人を対象とした殺傷事件が発生したことが記録されています。

埼玉県熊谷市の北部で発生した「妻沼事件」もその1つなのですが、こちらはその内容から語り継ぐべきものであるにも関わらず、他の関連事件と比べて滅多に取り扱われることがありません。ということで、今回はこちらについて調べてみることにしました。

普段とは異なるテーマのお話ですが、もし興味があれば一つの読み物としてお楽しみください。

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「妻沼事件」の概要

今回の記事を執筆するにあたり、以下の資料を参考にしています。

“埼玉県内における関東大震災朝鮮人虐殺事件資料“(著:関東大震災一朝鮮人虐殺9・2集会実行委員会 1974年)

“妻沼町誌“(著:妻沼町誌編纂委員会 1977年)

妻沼事件の被害者は秋田県出身の戸森友次郎(媒体によっては「戸巻」姓で表記)で、元は製缶職工で足尾銅山にいたそうです。関東大震災の発生を知った被害者は東京で何かしらの金儲けが出来ると思い、足尾銅山から逃げ出して上京する途中だったようです。

被害者は1923年9月5日の午後3時頃、その道中で長井村(現:熊谷市)の大字西野を通過しようとしていました。その際、被害者は強い空腹と疲れを感じていたようで、民家を訪ねて泊めてもらえるよう依頼したようです。

カノケイト
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長井村は旧妻沼町の中央からやや東側にあたる地域で、

西野地区はその西端に位置しています。

ですが、その民家の住民は被害者の方言が強かったために、被害者のことを朝鮮人だと思い込んで追い出したとされています。そして、この後に何らかの経緯があってから半鐘や太鼓などにより警報が流され、地域の自警団が被害者を探し始めたものと考えられます。

その後、西野の住民は午後5時頃に被害者を拘束し、そのまま被害者を妻沼町(現:熊谷市)の派出所へ連行しました。派出所では内田巡査部長が取り調べを行い、その結果被害者が正真正銘の秋田県人であることが判明します。

カノケイト
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この時代の妻沼町はまだ町制に移行したばかりで範囲が狭く、

現在の大字妻沼および大字弥藤吾にあたります。

被害者は自身の潔白が証明されたことで嬉しさのあまり「万歳!」と叫んだそうですが、これが住民達の癪に障ったようで暴徒化したようです。そして警官が阻止しようとするも被害者は交番から引き摺り出され、殺害された後に簀巻きにされて利根川へ投げ込まれたとされています。

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データの確認と整理

妻沼事件についてはいくつか報道資料が残されており、そこには氏名や大まかな住所を含めた被疑者の情報や裁判の様子が記録されています。妻沼事件について更に深堀して行くためにも、次は残っている資料を整理して被疑者の情報を簡単にプロファイリングしてみましょう。

妻沼事件で起訴されている被疑者の一覧と情報

大字妻沼(妻沼町)の住民

  • 金子 政吉(40歳):鳶職。傷害罪の前科持ち。群衆の目に付くために掛矢(大きな木槌)を持参した。被害者に対しては動かなくなった後で1度だけ叩いたと供述するが、他の被疑者による供述では被害者が派出所から引き摺り出された際真っ先に殴ったとされる。

大字上根(長井村)の住民

  • 緒 仁三(30歳):苗字はおそらく「諸」の誤記。在郷軍人で模範従僕としての表彰歴もある。被害者が朝鮮人であれば殺害するつもりで大小の2刀を持参したが、交番前が混雑していたため暴行には関与していない。4、5人程で被害者の遺体を簀巻きにして利根川へ遺棄したことのみ認める。

大字西野の住民

  • 白石 亀蔵(43歳):詳細不明
  • 小堀 長作(23歳):裁判時の資料では何故か22歳と表記されている。取り調べの結果から被害者が日本人であることに納得し、被害者が嬉しさから「万歳」と言ったことも理解していたが、群衆にかられて斬り付けた。
  • 須田 彌久(28歳):詳細不明
  • 細屋 徳重(45歳):苗字はおそらく「細谷」の誤記。裁判時の資料では名前が「徳次」と表記されている。凶器に使われたとされる「ムツテ」の詳細は不明。取り調べの結果を受けても「朝鮮人でも日本語くらいは話せる」と朝鮮人だと思い続け、半信半疑ながらも凶器で右肩を打撃した。
  • 青木 定吉(31歳):裁判時の資料では名前が「貞芳」と表記されている。在郷軍人。朝鮮人だと思って肩を叩いたが、斬り付けたことは否認している。
  • 小林 末吉(48歳):裁判時の資料では名前が「米作」と表記されている。被害者が泊めてもらおうと訪れた民家の住民。朝鮮人関連の噂から女子供まで怖がっていたところに被害者が訪れたことで、朝鮮人だと思い込んで追い出した後に井戸端を確認した。
  • 松本 源彌(32歳):詳細不明
  • 青木 長太郎(32歳):取り調べの結果を受けても被害者を朝鮮人だと信じ続けた上で、「万歳」と叫んだことを日本人ではない証拠と捉えて斬り付けた。
  • 小堀 豊吉(42歳):裁判時の資料では名前が「豊次」、年齢は何故か44歳と表記されている。被害者を追跡して後からいきなり鳶(先端が鉤状になっている棒)で殴る。取り調べの結果を受けて朝鮮人ではないと知りつつも殴った(裁判時、最初は白を切っていた)。
  • 鈴木 梅吉(30歳):裁判時の資料では何故か23歳と表記されている。熊谷の惨状を見て「警察が朝鮮人の暴徒に対処した跡」だと思い不安に駆られていた。凶器として六尺(約1.8m)の草かきを持参していたが、振り上げただけとして暴行については否認している。
  • 石井 長一(19歳):裁判時の資料では名前が「長市」と表記されている。取り調べの後でも朝鮮人だと思い込んでおり、仕込み杖を抜いて斬り付ける。
  • 大塚 善吉(36歳):朝鮮人が襲来したと警鐘が鳴らされているのを聞き、木刀を持って行った。取り調べの結果については「耳が遠いので知らなかった」と白を切る。

妻沼事件のデータをまとめると分かるのが、当時の資料には被害者の苗字を始めとして誤記と思われる箇所が複数存在しています。また、裁判の資料では裁判官が被疑者に対して皮肉まじりの話し方をしている部分があったり、容疑を否認する被疑者に対して何度も尋問して自白を引出そうとする場面があったり等、正直言って裁判自体がまともではなかった(もっと言えば、テレビドラマの脚本みたいに書かれている)ように見えました。

そのため、妻沼事件については現在残っている資料が不正確であることや、当時の新聞社や記者による誇張が含まれている可能性を念頭に置く必要があります。最悪の場合は妻沼事件自体がそもそも存在しない可能性すらあるので、以降はそれらを踏まえた上で閲覧してくださいね。

カノケイト
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関東大震災の当時には各地で混乱が起こっていた様子ですが、

それは記者にとっても同じだったようですね。

妻沼事件の被疑者の一覧を見て最初に気になったのが、14名の内12名が西野地区の住民であったということです。他の2人も「生真面目な軍人」と「前科持ちのチンピラ」というかなり特殊な顔ぶれなわけで、正直言って「殺気立っていたのはほぼ西野地区の住民だけだったのではないか」と感じました。

特に、もし妻沼の住民全てが不逞鮮人退治に躍起になっていたとするならば、西野のすぐ隣にある大字田島の集落から1人も逮捕者が出ていないことに大きな矛盾が生じます。そのため、妻沼事件については妻沼全体で起こった集団ヒステリーという程ではなく、西野という地区に絞って考えた方が正確に概要を掴めるように感じます。

この西野地区では田畑を宅地化した部分を除き昔の土地区分がそのまま残っている部分が多いため、現在の住民の苗字を確認すれば当時の住民の分布を把握するためのヒントとして使えそうです。次は「マッポン!」というサイトを使い、当時の地図に現在の住民の苗字(妻沼事件の被疑者と同じもの)を重ねてチェックしてみます。

引用元:https://map.jinken.tv/?a=36.20646329197896,139.3706059455872:16:%E7%99%BD%E7%9F%B3,%E5%B0%8F%E5%A0%80,%E9%A0%88%E7%94%B0,%E7%B4%B0%E5%B1%8B,%E7%B4%B0%E8%B0%B7,%E9%9D%92%E6%9C%A8,%E5%B0%8F%E6%9E%97,%E6%9D%BE%E6%9C%AC,%E9%88%B4%E6%9C%A8,%E7%9F%B3%E4%BA%95,%E5%A4%A7%E5%A1%9A:sh:kjmap_kanto_01
カノケイト
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昔の地図では少々読み取りにくい部分がありますが、

県道341号にあたる道路を目印にしましょう。

一部の苗字については現在確認出来ないものの、多くの家は西野地区内でそのまま存続している様子です。特に西野地区内の「青木」姓は県道341号沿いの南東部分にのみ確認でき、「細谷」姓は同じく県道沿いの東の中間部分に集中しているため、ここに地域特有の苗字の分布が見て取れますね。

また、当時の西野地区で集落があった土地(斜線が引かれている部分)に「小林」姓を確認出来るのは、県道341号沿いの南東の端のみです。実際に表札をチェックしてもここ位しか確認出来ないので、事件の被害者が最初に訪れた民家はここ(又はこの周辺)であった可能性が高そうです。

ちなみに、筆者が熊谷市出身の知人に聞いた話によると、被疑者の内「白石 亀蔵」の子孫と思われる人物に心当たりがあるそうです。その人物は少なくとも2000年代頃、地域内の妻沼東中学校で歴史の担当教師を務めていたらしく、当時でも初老の印象があったとのことです。

ただし、その人物は学校で妻沼事件に関する話をしたことが一切無く、それどころか妻沼東中学校自体が特別授業などで妻沼事件を取扱うことが無かったそうです。この証言から考えても、やはり妻沼事件について触れたがらない世間の空気が存在する様子ですね。

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当時の状況を推測

カノケイト
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ここまでで分かったことを整理して、

次は当時の状況を推測してみましょう。

被害者は足尾銅山から東京方面へ移動していたということなので、その過程で妻沼大橋(現在の刀水橋の前身)を渡ったことは確実です。当時は現在のような国道407号が整備されていなかったため、そのまま道沿いに進めば桐生熊谷線(現在の県道341号)を南下することになります。

そのまま進むと西野地区の南側に到達しますが、ここは長井村と奈良村(現在の熊谷市)の村境になっています。ここから道を進んだ先にある葉草集落(大字下奈良)までの間には1Km近く距離が空いている上に、村境には奈良川が流れているため体感での距離がより大きく感じられるはずです。

また、当時の葉草集落の周辺自体も田畑ばかりが続いていた様子なので、土地勘の無い被害者がこれを目の当たりにした結果、この先で当日中に宿屋へ辿り着けるのかどうか不安に駆られたことは想像に難くありません。その結果として被害者は日が暮れない内に民家に泊めてもらうことを考え、その場(西野地区の南東端)から近いところにある小林宅を訪ねた、と考えればしっくり来ますね。

カノケイト
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被害者の行動は一見すると突拍子もないように感じますが、

このように考えれば説明が付きそうですね。

現在の西野地区の南東部分には墓地と集会所があるのですが、事件以前の地図を確認するとその辺りにはかつて寺があったことが確認出来ます。被害者が朝鮮人と誤認された後には警鐘が鳴らされたそうですが、それがこの寺に設置されたものから鳴らされた可能性は高く、これも事件の発端が西野地区の南東付近であったという考察を補強しています。

被害者が最初に住民宅を訪問したのが午後3時頃、住民が被害者を拘束したのが午後5時頃ということで、それまでの間には約2時間の空白が存在します。この間に起こったことについて詳細に説明している資料は確認出来なかった(それ以前に、妻沼事件について語っている人でこの空白時間に気付いている人は誰もいなかった)ため、これについては残念ながら想像するしかありません。

例えば、「被害者が住民宅を訪問した後すぐに自警活動が始まり、しばらくは隠れたり逃げ回ったりしていた。それからある程度時間が経った後で被害者は熊谷を目指すことにしたが、奈良川を渡るための橋を抑えられていたために失敗して拘束された」といった感じでしょうか。

あるいは、「被害者は住民宅を訪問した後、本当に宿が無いのか確認するために近隣の集落を含めて散策し始めた。その結果として何もなかったため諦めて桐生熊谷線沿いに再び熊谷を目指すことにしたが、西野の集落付近に戻ったところで住民が再び騒ぎ出し、自警活動が始まって拘束された」といったことも考えられそうですね。

カノケイト
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2時間もあれば徒歩でも熊谷へ到達できたはずです。

それを思うとさぞかし無念だったことでしょうね。

また、被疑者と同じ苗字が西野内の桐生熊谷線沿いに集中していることから考えると、最初に被害者を拘束したのは数人で、道路沿いに北上しつつご近所付き合いの強い人をどんどん引き込んでいった、ということも考えられます。こうであれば被疑者のほとんどが西野の住民で、隣接する大字田島や道中の大字弥藤吾(妻沼町)から逮捕者が一人も出ていないことに説明が付きます。

妻沼の交番について「妻沼町誌」の381ページを確認すると、大正12年当時の交番は「妻沼1479-4」に設置されていたようです。この所在地を確認すると現在は妻沼小学校南西のバス駐車場にあたる様子なので、やはり被害者を連行する際には桐生熊谷線沿いに北上して行ったようです。

そして殺害された被害者の遺体は妻沼大橋の上から利根川へ投げ込まれたとされているので、ここでも桐生熊谷線沿いに進んで行ったことが考えられます。このように考えてみると、妻沼事件は妻沼と言うよりも桐生熊谷線沿いで起こった事件と言った方が正確なように思えますね。

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さいごに

妻沼事件は西野地区の南東部分が発端となっている可能性が高いですが、先述の通りここには現在西野地区の集会所が設置されています。筆者はこの集会所についてちょっとした違和感を覚えたので、最後にこちらについて調べてみることにしました。

その結果として筆者は「西野集会所」の正体を突き止めるに至り、何故妻沼事件が世間であまり語られることが無いのか、その真実を知ることができました。ですが、筆者はこの情報を公開するか否かについて何日も悩んだ末の結論として、今回の記事では掲載を見送ることにします。

その理由は、この情報が日本社会の闇に触れてしまうようなものであるため、公開するのであればもっと証拠を集めてからの方が賢明であると判断したためです。ただ、その情報自体は調べようとすれば誰でも簡単に辿り着けてしまうようなものでもあるので、どうしても知りたい方は熊谷市の「西野集会所」について調べてみてください。

記事としては転・結を欠いて中途半端になってしまいましたが、皆様の知的好奇心を刺激することが出来れば幸いです。また、今後もノンジャンルの記事を「コラム」のカテゴリーで作成して行く予定なので、興味があればそちらもチェックしてみてくださいね。

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