インターネットが普及した現代社会では、「国立国会図書館デジタルコレクション」を利用することで様々な資料の閲覧が容易になっています。特定地域の歴史や文化を深掘りしたい場合にも重宝するので、こちらを活用して歴史探訪を趣味にするのも良いかもしれませんね。
筆者は今回も埼玉県について調べものをしていたところ、少し気になる記述を見つけました。それを深堀りして行くと日本社会の黒歴史を発見してしまったので、今回はそちらについてお話します。
普段とは異なるテーマのお話ですが、もし興味があれば一つの読み物としてお楽しみください。
大我井の杜

時は康元元年(西暦1256年)、鎌倉時代の歌人である藤原光俊はこのような歌を詠んだと伝えられています。
紅葉ちる 大我井の杜の ゆふたすき また目にかかる 山のはもなし
藤原光俊は鎌倉幕府六代将軍の宗尊親王から歌席に招かれ、その後京都への帰り道として東山道(現在の群馬県や長野県側を通るルート)を選択しました。そのために鎌倉を北上して武蔵野を通過していたのですが、その道中で「大我井の杜」(おおがいのもり)に差し掛かかりました。
「大我井の杜」は関東平野の中にあるため周囲に山が全く無く、その中に突如として広がる大森林地帯には一際目を引かれたようです。そして立ち寄ってみると、まるで絵のように美しい木々の紅葉と、社の鳥居になびく幣の木綿(ゆふ)による白と赤の調和を目の当たりにし、たちまち詩情が沸いて一首詠んだと言われています。
なお、この歌は藤原長清が延慶3年(西暦1310年)に編纂した「夫木和歌抄」(夫木集)に収録されたものですが、後年これを復刻する際に「ゆふたすき」が「夕たすき」に誤植されてしまいました。そのためこの歌については長らく間違った解釈がなされていましたが、現在では国立国会図書館に所蔵されていた原本によって誤解が解消されています。

木綿(ゆふ/ゆう)は楮(こうぞ)の皮の繊維で作られた布のことで、
主に神事で使われているようです。
※藤原光俊の古歌については「妻沼町風物史話」(埼玉県大里郡妻沼町教育委員会,1973)を参考に記載しています。
それでは先程から言及されている「大我井の杜」とは何なのかというと、こちらは現在の埼玉県熊谷市の北部にある「妻沼」(めぬま)という地域に存在しています。現在で言うと街の中心部で川に囲まれた辺りの北部を指しており、だいたい「妻沼聖天山」「大我井神社」「妻沼小学校」等のある一帯がそれにあたりますね。
古代の妻沼は東山道へと続く「武蔵路」が通っていたと考えられており、利根川の渡河地点(現在の刀水橋付近)は「古戸の渡し」として武蔵と上野を結ぶ交通の要とされて来ました。藤原光俊が帰り道として古戸の渡しを利用していたとすれば、その道中で妻沼の「大我井の杜」に立ち寄っていたとしても不思議ではありません。

妻沼聖天山と言えば、成立当初の原型を残した大きい稲荷寿司が有名ですね。
私のおススメは厚めのお揚げが特徴的な「聖天寿し」です。
地域の伝承によると、妻沼ではかつて利根川が蛇行して地域内を流れていましたが、ある日発生した大洪水によって利根川の流路が北側へ移ったと伝えられています。その際に旧流路内に生じた2つの沼には男女それぞれの神が宿ったと信じられ、その間に存在する森林地帯は聖域とされました。
この聖域こそが妻沼に伝わる「大我井の杜」であり、要は現在で言うところのパワースポットのような場所ですね。ちなみに、大洪水によって生じた上流側の沼は「男沼」、下流側の沼は「女沼」と呼ばれ、これが「妻沼」という地名の由来になっています。
大我井の杜では長い歴史の中で様々な神社仏閣が祀られており、特に平安時代末期の武将「斎藤別当実盛」の守り本尊を祀った「妻沼聖天山」は現在妻沼の代表的な存在となっています。大我井の杜は地域の人々を長い間見守り続けた場所であり、妻沼の歴史や文化の中心として大切にされて来たというわけですね。

街の中心にあるので聖域というわりに結構開発が進んでいる場所ですが、
ここは一つ「エルフの国」みたいなものだと考えて納得しましょう。
大我井の杜がいつ頃から信仰されていたのかは不明、というかまともに研究されていないのが正直なところです。ただ、筆者が関連する情報を調べてみた上での考察(素人判断ですが)としては、おおよそ今から約2000年前~4000年前の間ではないかと考えています。
大我井の杜周辺の発掘状況を確認してみると、北西の近い場所にある「緑川遺跡」では弥生時代末から平安時代にかけて居住地として利用されていた跡が発見されています。緑川遺跡は利根川の旧流路上に立地しているため、伝承通りであれば弥生時代末頃には既に信仰が始まっていた可能性が高そうです。
また、かつての利根川は大我井の杜の辺りから南下し、熊谷市や行田市の南側辺りで荒川と合流していましたが、約4000年前に発生した荒川の大洪水によって東側へ流路が移っていたことが判明しています。もし妻沼の伝承がこの出来事を現代に伝えるものだったとしたら、……なんて考えるとちょっとしたロマンを感じますね。
異説の存在

このように、大我井の杜は妻沼という地域における始まりの場所であり、住民にとって大変重要な存在となっています。ですが、藤原光俊の古歌及び大我井の杜に関して、「妻沼町風物史話」に少々気になる記述が見受けられるので見て行きましょう。
[前略]
後年、これを復刻する際に「ゆふたすき」が「夕たすき」とされてしまったので、詠まれた場所に疑問がなげかけられ(新編武蔵風土記稿・吉田東吾の地名辞書)、中には「光俊朝臣の紅葉ちるの歌を、妻沼の地で詠んだとするのは、我田引水に過ぎる」と、きめつけている者さえいる。
[後略]
引用元:「妻沼町風物史話」(埼玉県大里郡妻沼町教育委員会,1973) 26ページ

「ゆふたすき」は神社の存在を示すものでもあり、
大我井の杜の候補地で神社があるのは妻沼のみだったため、
これは歌が詠まれた場所が妻沼であることを示す証拠になっています。
どうやら、藤原光俊の歌について先述の誤植が発覚する以前には、妻沼以外にも「大我井の杜」の候補地が存在していた様子です。中には妻沼に対して「我田引水に過ぎる」とまで言った者さえいたそうですが、正直なところ筆者はこれについて違和感を覚えました。
というのも、筆者が調べた限り「大我井の杜」と呼称される場所は妻沼以外で確認出来なかったからです。仮に妻沼以外でそのような場所があったとしても、条件に合致する上に「大我井の杜」という呼称が現存する妻沼が有力視されることは当たり前のことで、我田引水呼ばわりしてまで反発するのはかなり不自然ではないかと感じます。
このような反発をしていたのが具体的に誰だったのかはかなり気になるところですが、記録が無い以上調べるのは困難です。ただし、筆者が軽くインターネットで調べたところ、一部にその痕跡のような情報を発見しました。
[前略]
地名の由来
- 大森林があったことに由来するという説。
- この地域は大我井杜(おおもり)と言われていたことに由来するという説。”我井”は、武蔵の方言で”広大”の意味。
[後略]
引用元:大森(大田区)-Wikipedia
これはWikipediaの情報である上に要出典の記載まであるので、普通であれば信憑性が無いものとして無視すべきところです。ただ、これについては無から作り出した出まかせではなく、どこかに元ネタが存在するようにも感じたので、筆者は東京都大田区の大森に絞って調べることにしました。
本当の「我田引水」

東京の大森に絞って情報を探してみたところ、中里右吉郎(中里機庵)という人物が昭和4年(西暦1929年)に出版した「蒲田史料 : 上代より徳川家康江戸入府まで」という書籍に辿り着きました。
[前略]
参考のために書いて置くが、同じ、夫木集に、「大我井杜」と、題し、藤原光俊が歌を咏じてゐる。大我井杜に就ては諸説紛々として決定してゐないが、ガイとは、昔の武蔵の方言で、廣く大なる意味である。大字を冠するときは、ガイの言葉を附けたものである。故に、大我井杜とは、今の大森と云うことが明白となって来た。歌は、
紅葉散る、大我井の杜の、ゆふたすき また、めにかゝる、山の端もなし
である。大森の昔は、文字通り大森であった。しかも大森が、廣漠たる武蔵路の原に、突き立ち、前面の海と應じて絶景であった。しかも森には紅葉が爛漫として、むしろ櫻よりも美であったが、藤原光俊は、紅葉の散るところを咏じたので、この散る紅葉が、また特別の眺望であったのである。
[後略]
引用元:「蒲田史料 : 上代より徳川家康江戸入府まで」(中里右吉郎,1929)3ページ~
この記述は1933年に東京府荏原郡教育会読方科研究部が出版した「郷土の文学的資料」や、1939年に東京市大森区が出版した「大森区史」等にも引用が確認出来ます。また、比較的新しい書籍では1979年に出版された「とうきょうわが街 : 新警察風土記」にもこの説を踏襲した記述が確認出来るので、この説は様々な人が拡散に関わっていたようです。

1979年には既に誤植の件が明らかになっているので、
この論説は訂正等が一切行われなかったものと考えられます。
ただ、この大森説は「ゆふたすき」の件とか信憑性とかそれ以前の問題があり、「大我井の杜」を大森に断定する上での根拠がほぼ説明されていません。大森がかつてそのように呼ばれていたとする歴史的資料等は一切提示されておらず、「名前が何となく似ているから」位のふわっとした理由では根拠薄弱としか言いようがないです。
大森説では他にも「がい」の解釈を根拠として挙げていますが、これもやはり大森に断定する根拠としてはかなり弱い、というか言ってしまえば他の地域でも成立してしまいます。そもそも「がい」に大きい等の意味があるのは主に四国の方言であり、東京で同じような方言が存在しないとまでは断言出来ませんが、確認出来ない以上は無いものと考えるしかありません。
また、関東地方の言葉で「がい」と言えば「熊谷」(くまがい)のような例が存在するのですから、真っ当な学者であればまずはそちらの視点から考察するのではないでしょうか。正直に言ってこの「がい」の方言を根拠とする論説は、自説の補強ありきでそれっぽい言葉を適当に当てはめただけ、更に言えば捏造に近いもののように感じてしまいます。

大森説は「この古歌、大森のことだ…」位のことしか言っていなくて、
一体何がどう「明白になって来た」のかさっぱり分かりませんね。
この論説について更に深く調べたところ、そもそもの話として著者の中里右吉郎自体がかなり胡散臭く、薄弱な根拠で突拍子もない論説を唱えるような人物であったようです。例えば、中里は鎌倉時代の僧侶「日持」の足跡についても論説を行っていますが、そちらは他の学者から「根拠の怪しい小説的な奇説」と否定され、説の中で挙げられていた文献についても「解読不可能で中里が理解できたとは思えない」と断じられています。
というわけで、この大森説については信憑性に欠ける謬説と考えるべき、ということが筆者の結論です。また、大森以外で異説を強く提唱する地域は見受けられなかったので、妻沼に対して我田引水とまで言ったのは大森説の論者か、或いは中里本人だったのかもしれません。
さいごに

大森説によって発生した諸々の事象の原因は中里にありますが、この信憑性に欠ける説を信じた人々が一定数存在したことも忘れてはなりません。旧大森区の関係者や歴史学者・民俗学者はこの説が否定された後も特に訂正等をしていない様子であり、時間経過で問題を有耶無耶にしているようにも見えてしまいます。
そのために一部では今なお大森説が唱えられている様子であり、現にWikipediaでは大森の記事にこの説が堂々と記載されてしまっています。これは何より妻沼の人々に対して非常に失礼なことでもあるので、ここは関係者や学者を中心に一度はっきりと訂正すべきだと思います。
今回はいつもと異なるテーマでお話しましたが、皆様にとって役に立つものであったり、或いは一つの読み物としてお楽しみ頂ければ幸いです。また、今後もジャンルを問わず気付いたことがあればコラムとして公開することがあると思うので、興味があればそちらもチェックしてみてくださいね。

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